神に背を向けるのはやめましょう。私たちには、神様と顔を合わせてお会いする時が必ず来ます。今、自分の向きを変えて、イエス・キリストを探し求めましょう。イエス様を信じる時、あなたは全ての罪から赦され、神様と和解することができます。

驚くべき恵み

神は救いの方法をとても簡単にして、誰もが手に入れることができるようにされました。あなたがイエスを信じることを選ぶなら、神はあなたの父であり、あなたは彼の最愛の子供となり、彼の天的で永遠の王国の一部となります.私たちの罪が私たちを引き離すので、イエスの犠牲は神が私たちを彼に戻す唯一の方法でした.しかし、イエスは喜んで私たちの罪を負い、私たちの刑に服し、そのために十字架で死なれました。それによって、彼を信じることを選択するすべての人は義とされ、救われ、真のクリスチャンになります。神はイエスを通してあなたを見ており、神の観点からはあなたには何の罪も罪悪感もありません。それは神から私たち一人一人への無償の贈り物です。これは驚くべき恵みです。罪のない者は罪を犯した者を正当化するために犠牲にされました。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネによる福音書1:12)

警告

神から離れることに対する結果を知ることは大切なことです。私たち全ての人が知る権利があります。神は愛ある父であり、私たちを救うためにイエス様を救い主として与えて下さったことを知ることも大切ですが、同時に、神に背を向けた人を含む全ての人が、やがて裁きの日に神の前に立たねばならないことを知らなければなりません。その時になって後戻りすることも、悔い改めることもできません。聖書の福音書は、死後行く場所は2種類あると教えています。一つは神の御国。もう一つは希望のない苦しみの場所です。

イエスは言われた。「体だけは殺せても、たましいには指一本ふれることもできないような人々を、恐れてはいけません。たましいも体も地獄に落とすことのできる神だけを恐れなさい。」(マタイによる福音書10:28)

私たちがこの地上で過ごす時間は、「永遠」と比べるとほんの一瞬に過ぎません。しかしながら、この地上での決断が私たちの永遠を決めることになります。永遠をどこで過ごすのか。その決断はあなたが決めることです。これは人生で最も重要な決断といってもいいでしょう。ですから、ぜひ真剣に考えてみてください。

イエスは言われた。「たとえ、全世界を自分のものにしても、永遠のいのちを失ってしまったら、何の得になるでしょう。」(マタイによる福音書16:26)

ありのままで

クリスチャンになるには何が必要ですか。クリスチャンになることは、あなたが何をするか、何を達成するかではなく、神があなたのために何をして何を達成してくださったかについてです。それは、あなたがどれだけ良かったか、どれだけ悪かったか、過去に何をしたか、またはあなたの内面がどれだけ気分が良いかということではありません.ありのままでイエスに来るべきです。それは単純な選択であり、何があってもその選択に固執する問題です。

「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(使徒の働き2:21)

イエスは言われた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイによる福音書11:28)

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカによる福音書19:10)

決断する

全ての人がこの決断をする必要があります。

イエスは言われた。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイによる福音書12:30)

今はクリスチャンになる決断をせずに、もう少し年を取ってからと思う人もいます。もちろんそれは可能です。生きている限り、この決断はいつでもすることができるからです。しかし肝心なのは、私たちはどのくらい生きるのか、いつ死ぬのか、誰も分からないということです。死が訪れてからでは、永遠への扉は閉まり、この決断をすることはできません。手遅れになってしまうということです。

この決断が重要であるからこそ、それを遅らせることなく決断することが大切です。

「きょう、もし御声を聞くならば、、、心をかたくなにしてはならない。」
(へブル人への手紙3:7-8)

安全網を引く

イエス様に向き合うということは、きちんと安全網を引いてから空中ロープの上を歩く人に例えることができます(サーカスを思い出してください)。安全網がないままでは、落下してしまった時の悲劇は計り知れません。しかし安全網さえあれば、何度落下したとしても安全です。また立ち上がってやり直せばよいのです。

イエス様はその安全網のような存在です。しかも、誰も何も破ることのできない、最強の安全網です。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ人への手紙8:1)

しかし安全網のない人生、つまりイエス様のいない人生では、全ての罪や過ちは裁きの日に明らかにされることになります。裁きの日とは、神様が全ての人を裁く日を指します。罪の裁きの結果は永遠に神と離れること、と聖書は教えています。イエス様はこのように教えています。

「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」(マタイによる福音書12:36)

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(へブル人への手紙4:13)

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネによる福音書3:36)

クリスチャンになる

クリスチャンになるための決断は、祈りを通してすることができます。

祈りとは、神に話すことです。神様はあなたをご存知です。クリスチャンになる祈りとして、以下の祈りをお勧めします。

「イエス様、これまで私がしてきた罪について、あなたに謝ります。どうか赦してください。私のために十字架にかかり、私を罪から救って下さり、ありがとうございました。どうか私の人生に来て下さり、私を聖霊で満たし、永遠に共にいてください。イエス様ありがとうございます。アーメン。」

この祈りは、あなたの心から来るものでしょうか?
もしそうであれば、是非今祈って下さい。
イエス様に祈る時、イエス様はあなたの人生に来て下さると

約束してくださっています。

クリスチャンとして歩む

イエス様を救い主として信じることは、その人を完全な者にします。それはあなたから出るものではなく、イエス様の十字架によって神様が無償で与えて下さるものです。

しかし同時に、私たちが悪から遠ざかり、イエス様のようになるため成長し続けることは、神様のみこころでもあります。これは、義となることや救われることが目的ではありません。なぜなら、信じた時すでに義とされ、救われたからです。私たちは、救って下さった神様に感謝するからこそ、成長するのです。

クリスチャンの成長は、2歩進んで1歩下がったり、時には2歩下がって1歩しか進んでいないと感じることがあるかもしれません。しかし大切なことは、私たちがいつもイエス様に近づき、イエス様の前に何も隠さないことです。もし神様が喜ばれないことをしてしまったら、その時はそれを告白して赦してもらえばいいのです。イエス様はあなたの安全網なのだから、あなたが生きていく限り、常に助けてくださるお方です。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1:9)

クリスチャンとして成長するために、是非良いクリスチャンの交わりや教会に参加することをお勧めします。他のクリスチャンと交わりを持つことや、御言葉を分かち合うことは大切なことです。

もしまだ洗礼を受けておられないならば、是非、牧師やクリスチャンの交わりに連絡してみてください。そして主イエスの名のもとに、洗礼を受けて下さい。

聖書にこう書かれています。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
(使徒の働き2:38)

キリスト教と宗教について

キリスト教と他の宗教との徹底的な違い:
他の宗教では、人が努力すること、人が犠牲を払うことを求めます。しかしキリスト教はその反対です。神様が世の人々を愛するがゆえに、神ご自身が人のために犠牲となってくださいました。神ご自身が一方的に救いを与えて下さいました。

唯一の道:

聖書は、イエス様だけが唯一の救いの道と教えています。他にはありません。特に悪事も働かず、ほどよく良いことをしてきた人生を送っていたとしても、それ自体があなたを神様に近づけることはできません。どんなに良いことをしても、良い人であっても、全ての人の心には罪が存在しているからです。イエス様の救いなしに、私たちが聖い神の前に義として立つことはできないのです。自分が罪人で、イエス様の十字架を必要としていることを認めなければなりません。

イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネによる福音書14:6)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き4:12)

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ人への手紙3:23-24)

復活の目撃者たち

人間の罪の解決のために神が認めた唯一の犠牲は、イエス様による犠牲でした。イエス様が十字架の死の三日後に復活したことで、神はその犠牲の受諾を宣言したのです。

イエス様の復活後、12人の弟子たちの他にも500人以上の人がイエス様に実際に会ったことを使徒パウロが証言しています。そのほとんどが、その後25年以上生きたことも分かっています。(第1コリント15:6)そして十字架刑を執行したローマ人を含め、それ以上の人々がイエス様の死を目撃しています。

死から復活された後、イエス様は弟子たちにこう言われました。

「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが・・・あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカによる福音書24:44-48)

イエス様についての預言

イエス様の死と復活は、イエス様ご自身が数年前に預言していました。イエス様の人生、死、復活の全てもまた、神様が定めた預言者たちによって数百年前から預言されていました。旧約聖書には、神様が世に送ると約束された救い主についての預言が合計48あります。

そのうちの一つに、預言者イザヤの預言があげられます。イザヤはイエス・キリストが地上に生まれる700年も前に生きた預言者です。(以下は、イザヤの預言の一部です)

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:4-6)

綿密に詳細まで預言されていた

モーセ五書、預言書、そして詩編の中の預言は全て、イエス様誕生の数百年前に書かれたものでした。しかもその全てが、綿密に詳細まで書かれていました。

イエス様はその友(イスカリオテのユダ)から銀30枚の値で裏切られること。(詩編41:10、ゼカリヤ書11:12)銀30枚がイエス様の死後何に使われるか。「陶器師に投げ与えよ」(ゼカリヤ書11:13)イエス様の手と足が引き裂かれること(十字架刑)(詩編22:16)。通常十字架刑では足の骨が折られることが多いが、イエス様の足の骨が砕かれることはないこと(詩編34:20)。代わりに横腹が突き刺されること(ゼカリヤ書12:10)。イエス様の十字架刑の100年以上も前に預言されたこれら全てが成就しました。(マタイ24:15 & 26:47-48 & 27:5-7、ルカ23:33、ヨハネ19:33-34)イエス様の十字架と死に関する預言のほとんどが、預言について無知であったローマ人によって成就されています。

これらの預言が成就したことによってもまた、神様はイエス・キリストこそが、ご自身が約束された救い主であることを証明されました。

「そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(ヨハネによる福音書14:29)